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思想
SNS


う随分と大きくなったので、今更インターネットにワクワクすることはない。多くの小学生がスマホを持ちGoogleやSNSを触る時代になったくらいにはネットも発達した為、知らない人間と繋がることへの新鮮味も恐怖もない。しかし体はいつでもインターネットでの繋がりを求める。

小学生の頃からだいたいずっとインターネットだけで繋がっている知り合いがいた気がする。ある時はゲームだったり、またある時はTwitter(現)だったり、Discordだったりで出会った、たまにちょっと喋ったりするだけの名前も顔も知らない知り合い。
ネットだけの関係はいい。良い意味で気を遣わないし、何かトラブルがあっても簡単に離れる事が出来る。現実と比べて非常に薄い繋がりだ。
しかしそういう薄い繋がりが私には必要なのだ。現実の知人と関わる時は、相手の気持ちや関係値の変化など今後の生活を過度に気にしてしまうきらいがあるが、インターネットだとお互いが関心を持ちすぎない、距離のあるドライな関係である為、却って本音を好きに話しやすい。また現実だと相手の活動時間など生活を気にするが、ネットの知り合いのことは特に気にしない。

人と関わる際に多大な体力を使い、悩みを溜め込みやすい自分にとってインターネットはリラックス出来る場所なのだ。勿論インターネットで全くトラブルが無い訳でも無いし時に疲れることもあるが、少なくともかしこまったり緊張感を感じることは殆ど無い。とにかく気楽である。

今もインターネットでのみ繋がっている知り合いがいる。しかしいつまで繋がっているかはよくわからない。何となくだがそんなに長くない気はしている。だが少なくとも苦の多い今の自分にとっては癒しになっているからそれでいいのだ。
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過渡期


は1990年代半ばから2010年代前半のどこかで生まれた為、所謂世代にあたる。私は世代という括りが大嫌いだ。理由は色々だが、一つ言えるのはいくらなんでも該当する年代の範囲が広すぎる。例えば1997年に生まれたおじさんと2012年に生まれたガキンチョのが同じ括りなのはいくらなんでもおかしいと思う。
同じ世代というには年齢層が広過ぎて、それぞれで生きた時代も価値観も全く違うと思うのだ。今日はそういった違いの一つである、学校でのコンプライアンスについて話したいと思う。
以前にも少し話したが、私の世代は教師の体罰や暴言などが改善されたり、部活動が緩くなっていく過渡期であり、廊下に立たせたり殴ったり等の昭和のような行き過ぎた体罰などは流石に無かったが、小学校の頃は先生が椅子を廊下に放り投げたり、中学の頃は集会中喋っていた生徒を強引につまみ出したり、という結構ギリギリな体罰は割とあった。
体罰の歴史を調べてみると、諸説あるがやはり私が小中学生の頃にはだいぶ無くなっていたらしい。(具体的にいつ無くなったかは各々で調べてもらいたい。)だが実際のところは明確に「体罰」と取られないギリギリで生徒に威圧を与える教育があったと記憶している。

暴言・恫喝はめちゃくちゃあった。大体の先生が怒る時は怒鳴ってたし、人格否定や教育の域を超えた暴言も当たり前にあったと思う。しかもそういう傾向は中学に上がるほど多かった。「人間のクズ」とか逆に生徒が言ってたら注意すべきであろう暴言も普通に吐いてたし、そもそも内容以前に鼓膜が破れるような恫喝を長時間も続けているのはお互いの精神衛生上良くないんじゃないかなと今なら思う。
暴力が淘汰されていったという話はよく聞くが、暴言の方はあまり聞かない。しかし今日は会社等でもハラスメントに対する意識が高まっているんだから恐らく子供達に対する暴言等ももう少し規制されてるのであろう。そうであってほしい。

しかし今思っても小中学校の頃とは一体なんだったんだろうというか、普通のでやったら訴えられそうな常軌を逸した教育が山ほどあったし、生徒もそれはそういうものだと思って過ごしていた異常な時期だったと思う。こうなる理由は恐らく学校が閉鎖的な空間であることと、奔放で生意気な子供達と関わるストレスというどうにもならないものだと思うし、私の世代のようにギリギリを攻める教師はいなくならないと思うので、どれだけ規制しようが教師の問題行動が根絶されることはないと思う。しかしそれでも多分今の子供達は私の頃よりはずっとマシな環境で暮らしていると思われる。・・・羨ましい。
痕跡


字を書くのは好きだ。幼い頃から作文や日記への抵抗感はなかったし、このブログを立ち上げる前にもnoteで一年駄文をしたためてきた。
という訳で今回は、私がnoteやブログなどで記事を書き続けている理由や目的について話したいと思う。

結論から言うと、私が駄文を量産し続けているのは今を生きている痕跡を残したいからである。
話題や文のクオリティは日によってムラがあるし、上振れたとて一流の文章は書けない。インターネットに挙げているが誰が見ているかもよくわからない。それでも今の力量やテンションで書くことに意味があるのだ。noteも含めると本当に酷い文章や、内容が悍まし過ぎて読み返せないものもある。でもそれはその瞬間の自分が反映されているものなので全部ひっくるめて愛おしいのだ。
今の自分を表す文章、と言うとどちらかと言うと日記とかをイメージしそうだが、意外とそういう記事は多くない。というかこのブログに関しては日記的な記事は多分一つもない。それでも文章力やその時の思想がしっかり反映されており、今しか書けない文章になっている。それがいいのだ。

しかしそれではインターネットにわざわざ上げなくてもいいのではないか?と思う人もいるかもしれない。だが、私はインターネットに上げる=一定数の人間に見てもらうということを意識することで、人が読める程度にはちゃんとした文章に仕上げるようにしたり、自分一人でやると文章への認知が歪み、思想の先鋭化や文章力の悪化などの可能性があるのでそれを防いだりしている。人に見られる羞恥の感覚が薄いのでデメリットがなく、メリットしかないのだ。

そういう理由で私は文章を書き続けている。途中で投げ出さないように、習慣化したいという思いでできるだけ毎日書いている。自分のしていることを例えるなら洞窟にメッセージなどを書き残しているような感じだ。そういうシチュエーションが実在するかはわからないが。
いつまで続けるかは決めていないが、出来るだけ今後も継続していきたいと考えている。読者にはこれからも私の人生の痕跡を見届けてもらう。
ラーメンの煮卵


ったら嬉しいけど別に無くてもいいものって無いだろうか?私はそういうもののことを「ラーメンの煮卵」と呼んでいる。という訳で、今日はそんなラーメンの煮卵たちを紹介したいと思う。

身近なところから行こう。まずはモバイルバッテリーである。あったら絶対便利だと思うが正直持ってなくて困ったことはあんまりない。ハンディファンなんかもそうだ。毎年夏になると街中で持ち歩いている人がちょっと羨ましくなるが、そう思いながら結局毎年買わない。
他にも小物入れとか小銭入れなんかもそうだ。どうやらこまごましたピンポイントな需要を満たすものは煮卵になりやすい傾向があるようだ。

しかしどこまでが煮卵と言っても差し支えないのだろうか?
例えば「趣味も煮卵じゃないか?」と言う人がいるかもしれない。しかしそこまで行くと流石に極論である。趣味だったり、食べ物の飾り付けだったり、家具だったり世の中には生きていく上で必ずしも必要とは限らないが、生活の豊かさの為に必要なものが沢山ある。こういうものを「別になくてはいいもの」とは私は思わない。ラーメンで言うならチャーシューくらい必要なものだと思う。
あってもなくてもそんなに大きくは生活の豊かさは変わらないもの、それがラーメンの煮卵なのだ。そこを踏まえてもっと考えてみよう。
スマホスタンドなんか煮卵だ。スマホを立てたい時って個人的には結構少ない。私はウォレットチェーンを使うことがよくあるのだがあれもなかなか煮卵である。カバンを持ち歩きたくない時に安心するけど別にチェーン無しでポケットに突っ込んでもそんなに問題ないような気はしている。イヤホンのノイズキャンセリング機能も煮卵かもしれない。究極聴けたら何でもいいからあんまり機能を盛りすぎると煮卵になる。

逆に煮卵にも満たないものの話もしよう。先日父がアボカドの種を抜く道具を買っていたのだが、ここまで行くといくらなんでも需要がニッチすぎて最早「あったら嬉しい」かどうかも疑わしい。煮卵になるには少なくともあったら嬉しいというポイントは抑えないといけない。誰でも彼でも煮卵になれる訳ではないのだ。

いかがだろうか。このように世の中にはラーメンの煮卵みたいなものが溢れている。煮卵はなくてもいいものではあるが必要ないものではない。でも少しずつ需要を満たしてくれるものがいっぱいあるからちょっとだけ日常は楽しいのかも知れない。私が書き続けているこのブログも誰かの煮卵になれたらいいな、と思っている。
妄想と現実


日は一緒にトレーニングをしてみよう。妄想と現実を切り分ける練習だ。これをやることで私のような思い込みで悩んでいる人達が少しは楽になるだろう。

例として、「普段は親切な人だし親しいんだけど最近はちょっとそっけないというか距離感を感じる知人」を想像してほしい。こういう人に対して「今日は疲れてるのかな?」と思う人もいれば、「嫌われているのかな?」と思う人もいるだろう。勿論気にしない人もいっぱいいるかもしれない。そこで早速現実と妄想を切り分けてみよう。
まず間違いなく現実なのは「親しい人」のみである。「最近そっけない」「距離を感じる」はまだ現実とは断定できない。自分が疲れていてそう見えるだけかもしれないし、そっけなかったり距離をとっているのは自分という可能性も考えられる。「距離を感じる」から「嫌われている?」とかあれこれ考え出すのは完全に妄想である。
妄想をしてはいけない訳ではないが、根拠のない妄想を膨らませ過ぎると気疲れをしてしまうし、妄想による色眼鏡がかかった状態で相手を見てしまい要らぬ心配やトラブルに繋がってしまう。そこで妄想と現実の切り分けだ。今回なら「そっけない」とか「距離を感じる」はあくまで妄想に過ぎない、と一旦切り分け、それまでずっと親しかったことなどを「現実」だと整理する。その後どうするかは貴方次第だ。あくまで妄想だから気にしても仕方がない、と気にしないことにするも良し。親しいんだし実際どうなのか本人に確かめに行くも良し。切り分け作業をすることで落ち着いた行動が出来るのだ。

次の例に行ってみよう。「前は親しかったがもうしばらく連絡を取っていない知人にまた連絡をしたくなったが、いい返事が来なかったり、そもそも無視されそうで怖い」のパターンである。
さっきの例をクリアした貴方ならもうわかるだろう。この場合は「前は親しかった」「今は連絡を取っていない」「悩めると言うことは連絡先は残っている」が現実で、「いい返事が来ないかもしれない」「無視されるかもしれない」が妄想である。
私のように思い込み過ぎるタイプはここで「何か嫌われることをしたから連絡が途絶えた」とか「連絡することで相手が不快な思いをしたらどうしよう」とか考えてしまいがちだが、これも勿論妄想である。そうと分かったらこれらの現実と妄想を切り分ける。後は思い切ってまた連絡するなり、やっぱり面倒だから辞めるなり自分の好きにしたらいいのだ。

いかがだっただろうか?妄想と現実を混同し余計なことで悩むタイプは世の中に結構いると思う。こういうタイプは他人の気持ちや自分が傷つかないかを考え過ぎてしまい、過度にエネルギーを使い過ぎた末、ネガティブな妄想に押しつぶされてダメになってしまいがちなのである。しかし悩み混んで立ち止まってしまっては不毛である。勿論嫌な予感が的中する可能性もあるが、わからない内からなにもしなければ可能性もクソもない。これを読んでいる悩める貴方も、是非人間関係で困ったら「切り分け」を試してみてほしい。

最後に一言アドバイスをするが、「貴方は意外と嫌われていない。」
無責任なことは言えないが、大体こういう思い込みの激しいタイプは人に嫌われないかどうか過度に気にするきらいがある為、もうこう思ってしまった方が楽である。嫌われるのだって才能なのだ。
PROFILE

HN:
怪獣
性別:
非公開
職業:
生きること
趣味:
ダイビング、ギター、ゲーム等
自己紹介:
涅槃
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