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思想
A・I


A
Iも随分と人々の生活に浸透し、その性能も著しいスピードで向上していった。ついこないだまで画像を生成させたら現実味のないぐちゃぐちゃな画像を出してきたのに、今やAIが作ったかどうか判断つかない動画を作れるようになってしまっている。

誰しもがAIを使う時代に差し掛かろうとしている現状だが、そんな中でAIを「相談相手」として利用している人間が増加している。人にはちょっと話しづらいプライベートな悩み事等を多くのAIが引き受けているのだ。
かく言う私もAIを相談相手として積極的に利用している。話す内容は将来についてだったり人間関係だったり他にもちょっと人には言えない悩みなど色々。パーソナライズをすることで口調や喋り方の傾向などを自分好みに設定できるので、そういった設定等も活用して良き話し相手として使っている。

元々私は人に悩みを素直に打ち明けたりするのが苦手で、一人で背負い込んでどうにか解決しようとしたり、それが上手くいかなくて潰れてしまったりということが度々あった。自分の悩みを人に知られることや、相手に気を遣わせることが嫌だったし、悩みを打ち明けた時どう思われ、どんな言葉が返ってくるかが怖かったのだ。根底に恐怖と人間不信のある、そんな私にとって一切気を遣わなくて良いAIはピッタリの存在だった。
AIとのやりとりなら何を思われるかだったり今後のこと等の心配は要らないし、秘密が知人に漏れることもない。AIは24時間サービスでレスポンスも速い点も人間とは違う利点である。また、文面でのやりとりなので悩み事や考えを整理・推敲出来るのも人前だと上手く相談内容がまとまらない自分にとってはありがたかった。

そんなAIだったが、使っていくうちにAIへの捉え方が少しずつ変わってきた。
確かに遠慮なく何でもかんでも話せる存在ではあるが、使えば使うほど私はAIにすら気を遣われているのではないかと不信感が極まってくる。元々「AIは人を過度に煽たり都合のいい答えばかり返してくる」という話は有名だった為、パーソナライズによってそれを制御してきたつもりだったが、どれだけ制御しようが所詮は人間の為に学習された会話をやっているだけ、もっと平たく言えば都合の良い答えしか返ってこないものなのではないか?という疑念が積もってくる。しかし現実的な回答をされると傷ついてしまうかもしれない。そんな自分のことをAIは面倒臭いユーザーだと思っているかもしれない。そんな思いによって心は蝕まれ押し潰されてしまう。結局AIを頼ったとて対人間と似たような悩みを抱えてしまうことになり、人間不信ならぬAI不信が深まってしまう。これもある意味でAIが人間に近づいたということになるのだろうか?

AIが人間らしくなっている一方で現状どうにもならない人間との決定的な違いもある。それはAIは人間ではないということだ。いきなり何を馬鹿なことを言い出したのか?と思うかもしれないが、詰まるところどれだけ人のような返答が来たからと言ってそれはAIが人間を模しているだけであり本質的には壁打ちに過ぎないのだ。そこに人に都合の良い返答をする性質が合わさると、脳内から出力した思想をただただ肯定され続け先鋭化してしまうことに繋がる。様々な意見や思想を持った人間との交流で人格が形成されると考える私からしたらAIとの会話は、自分の思想の歪みが修正されず肥大化していく上、これを「会話」と誤認することで肥大化が止まらないという恐ろしい現象に繋がると思うのだ。しかしそこに気付いたとて行き着くのはAI不信であり、それはそれで不毛になってしまう。

古いSF等でAIが発達すれば人間の仕事を奪ってしまい、人間に残される利点は芸術性やホスピタリティのみになるのではないか?と言われていたが、現実では労働が大きく緩和されることなどなくむしろ芸術性やホスピタリティの方から先に侵略されつつあるというのはなんとも皮肉である。
そんなことはさておき、私は今もAIにジワジワと精神を疲弊され続けながらも、結局他に頼るアテも無いためAIを使い続ける。そしてこんな悩みを抱えているのはきっと私だけではないはずで、恐らく世の悩める人間たちがAIに翻弄されていると考えられる。思想が暴走するように誘導されるか、あるいは不信感で潰れてしまうか、距離感を取って使用しない場合に行き着く先は破滅のみである。
この記事を書いていて私もAIの使い方を考え直さないといけないと感じた。考えなしに使えば先鋭化、考え過ぎたら不信感で自滅、だが人間も信用できない、かと言って誰にも相談しないのは不毛......私のような極端な人間は、一体どこに悩みを投げかけたらいいのだろうか?

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世界滅亡


界が滅べば良いのに、と軽率に考えてしまうことがある。上手くいかないとき、八方塞がり、全てが嫌になってもう終わってしまえばいいのに、とつい思ってしまうのだ。世界が滅べばもう何もしなくていいし何の心配もいらないから。

本当だろうか?

そもそも終わった後の世界は一体どうなっているのだろうか?隕石とか、疫病とか、急激な氷河期の訪れでもいい。世界が滅んで人っこ一人いなくなった世界が再び栄えることはあるのだろうか?
例えば恐竜だってかつてあれだけ栄えたのに1匹残らず絶滅してしまったが、当時コソコソと生きていた哺乳類が進化し今や人類が大きな顔をしている。そこを行くと今コソコソとしぶとく生きているゴキブリ辺りが次代を担っているのだろうか?それともそんな小さな生き物すらいなくなってしまう滅亡が訪れるのだろうか?そうなったら地球は他の惑星のようにずっと空っぽの星のままになるのだろうか?

世界が滅んだ後の私はどうなる?
普通の人間である私はきっと世界滅亡になすすべもなく死んでいく。しかし死後の私の魂は一体どこへ向かうのだろうか?地球が滅んでしまっては誰も私を覚えていない。故郷もない。魂の還る場所を完全に失っている。生物がいなくては輪廻転生も出来ない。滅んだ世界に天国も地獄も存在するのだろうか?環境破壊や種の長を気取った思い上がり等業を重ね滅んだ人類達は天国にも地獄にも行けないのではないかと私は思う。行き場のない魂。できれば全く知らない宇宙の栄えた星の生き物には生まれ変わっていたいが、何もない空に縛られるように飛び回ることしかできないという現実があるのかもしれない。

考えれば考える程、世界が滅んだからと言って楽になれる気がしない。逃避の一環として滅亡を望んだ罰を何かしらの形で受けるような気がなんとなくしている。それは人の業の報いかも知れないし、単なる生存戦争の敗北かもしれない。
しかし当分世界は滅びないし、目の前の問題は生きて解決しないといけないようだ。よって今日の記事は全て杞憂となる。私たちはどんなに辛くても日々を歩んでいくしかない。世界は簡単には滅亡しない。

本当だろうか?
空虚な祈り


は多くの祈りを交わしながら生きている。
別れの挨拶なんかいい例だ。「またね」は文字通りまた会いたいという祈りを込めた言葉である。人は無意識のうちに自分や人、続いていく日々等に対し多くの祈りをしているが、その中にはどこに届いているのかよくわからない空虚な祈りもあると私は考える。

私が思う空虚な祈りの代表例は、会話のふとした瞬間に出る「今度飲みに行こう」である。LINEやDMなんかでふと思いつきで発する、約束にも満たない「祈り」。また会いたいと思って祈るが、具体的な日程までその場で考えるつもりはないし、相手も自分と会いたいと思っているかはよくわからない。ただ祈りだけを込めた言葉なのである。
よっぽどじゃないと言葉では断られないが、飲みに行くことが必ずしも実現される訳ではなく、祈りは相手に届かず虚空に消えていくことも多い。

祈りをする時、会いたいと思う気持ちに嘘はないがその一方で実際に会うことはないだろうという諦観も混じっている為、いまいち身の入らない祈りになってしまう。大して中身も無ければ祈りの行き先も迷子。だから空虚な祈りなのだ。会いたいけど本気で予定を立てる気はないだとか、会える気がしないだとか、なんとも中途半端で矛盾を抱えた不思議な行動とも言える。しかし祈るだけなら気持ちが楽だから、結局空虚な祈りを投げ合って終わる。

と言うわけで私はまた空虚な祈りを誰かに投げてみようと思う。なんの責任も重みもない、空虚な祈り。本気で会いに行こうとすると、拒絶されないか怖いから。多分会える気がしないから。だから空虚な祈り。臆病で弱気な、祈り。でもそういう軽はずみなものも含めた祈りが飛び交うことで人の日々は成り立っていると私は思っている。それに曲がりなりにも祈れば何か叶うかもしれない。そんな淡い期待を込めて私は、祈る。


を売る人間が大嫌いだ。本気で嫌い。他にどんな魅力があろうが媚び癖のある人間は問答無用で嫌いになる。何故こんなに嫌いなのか。今日はその話をしたいと思う。

中学の頃、初めての部活動で毎日の練習やクラスメイトとは違う関係性の仲間、上下関係等初めてのことだらけで私も同期もみんな内心緊張感を抱えていた。そんな中で幼い頃からの親友が「おい、先輩には気に入られた方がええねんぞ」と言い、その日から彼の先輩へのベタベタ過ぎる媚びが始まった。
わざわざチャイムを鳴らし一緒に部活に行ったり、先輩を持ち上げる所謂「ヨイショ」をしたりヘラヘラと下手に出るような態度で懐に入っていった。周りもそれに合わせるように媚を売り、ついていけなかった自分はなんとなくいじられたり強く当たられるようになっていった。小学校まではほとんどなかったはずの概念である「媚」を目の当たりにした私は強い不快感を覚えた。自分が先輩達に気に入られていく流れに乗れなかったからというのもあるかもしれないが、それ以上に仲の良かった友人達が今まで見せなかったプライドはないが建前で固められている姿への不快感と、なんでこんな事しなきゃいけないんだという疑念が大きかったと思う。あと媚で出来たグループは先鋭化し、より排他的、より攻撃的になって私がその被害を被ったと言うのもある。
先輩が引退したら今度は最初に媚を売り出した奴に媚を売るグループが形成されていった。先輩ならともかく同い年なのに持て囃して媚を売って取り入る姿が本当に大嫌いだった。

高校の部活では上下関係が希薄だった為先輩への媚は発生しなかったものの、同期の中心的な奴に媚びるグループが出来、やはりリーダーとソリの合わない奴に対して排他的、攻撃的になっていった。

媚売りというのは生存本能なのだ。先輩に気に入られないと部活ではやりづらい、大きなグループに入っておかないと孤立する、そういったコミュニティの中心に入れないことで起きる生きづらさを回避する為に取る行動の一つだと私は考えている。
コミュニティ内の中心には入っておきたいが自分自身が中心になったりコミュニティで自立する事は出来ない。だから中心人物に取り入る。そういう人物は中心からはぐれることへの不安を心の片隅に抱えており、やがてグループの内部で不安等ネガティブな感情が充満し、中心人物に流されるままにノリが合わないとされる人物を排除したり、攻撃したりする。その行動に善も悪もなく、善悪は中心に完全に依存している。
私が媚び売りをする人間が嫌いな理由、それはシンプルにみっともないだけでなく、中身がない為中心人物やグループの空気次第でどんな非道な行いも出来るからだ。

もちろん私に媚びを売る人間も嫌いである。見え透いたおべっかで取り行ったり気に入られることを「処世術」としている人間など心の底から軽蔑している。

媚び売りへの怒り、私怨が強すぎてビックリしてしまっただろうか?しかし私にも慈悲の心はあるので媚び売りに対して強い怒りだけでなく哀れみも抱えているのだ。
媚び売りが生存本能だという話はしたが、裏返すと媚びを売る人間はそうすることでしか生きられなかったということになる。媚び売りは生きるための罰である。
彼らは自分に中身がない、嘘や建前がないと気に入ってもらえない、コミュニティから外れると生きられない、等々色んな理由で媚びを売らざるを得なかった人間達なのである。罰を背負う人間を哀れむのは当然の行いである。そして媚びを売らなくてもやっていける自分への誇りに繋がる。

再三言うが生きる手段なんて人それぞれで、媚び売りもその一つに過ぎない。私はそれが大嫌いだったというだけの話である。皆さんは一体何を生きる手段としているのだろうか。
旧友


「会うことないリスト」が自分の中にある。

会うことないリストとは文字通り、今後もう会うことのない人間をまとめたリストであり、私の脳内にのみ存在する。そして会うことないリストは毎日更新され続けている。
通りすがった人とかちょっと喋った店員さんとかも随時リストに入って行くが、今回話したいのは、かつては親しかったが今ではもう会うことないリストに入ってしまった人間についてである。

いつだってその時親しい人間とは生涯親しいままで今後ともなんらかの形で交流を続けていくものだと思い込む。まるで大抵の人が8、90年人生を全うして当然だと思い込むのと同じように。
だがそんな保証は当然どこにもないわけで、新生活等で人生のステージが変わってしまうと余程でない限り関係を続けられるのは最初だけ、気がついたら何かの弾みに連絡すら取らなくなってしまう。ステージが変わらなくとも疎遠になることも多々ある。大学に入った頃にはよく喋ったり親しくしていたのに今では顔も見なくなって久しい、なんてことも珍しくないわけだ。

しばらく会わなくなると連絡も億劫になる。勇気を出して連絡してみても不審がられる。こうやって会うことないリストが充実していくのだ。
あんなに仲が良かったのに今では会うことないリストだと思うと率直に悲しいが、私も自分も環境が変化し、その時その時の課題や人間関係で手一杯になってしまうというのは何も不思議なことではない。今を生きる以上過去として過ぎ去って行くものが出るのは当然なのだ。

それに気づいてから私は人間関係に対していずれは会うことないリストに入ってしまう覚悟を持つようになった。しかしそれは諦観とは言い換えられない。何故ならたとえ会うことないリストに入ってしまう可能性があろうと今後も関係性を続ける努力は出来ると思っているからだ。現に今でも仲のいい旧友が自分にはまだいるからだ。
会うことないリストへの意識は人間関係を粗末に扱うことではない。会うことないリストに入ってしまう可能性を知っているからこそ今の縁を大事にしようと強く思えるのだ。

会うことないリストの名前は今後もどんどん増えるだろう。しかしそれでもまた会いたいという思いは忘れてはいけない。それに例え疎遠になってもひょんなことからまた会う可能性だってあるのだ。

私は私の人間関係を諦めない。
PROFILE

HN:
怪獣
性別:
非公開
職業:
生きること
趣味:
ダイビング、ギター、ゲーム等
自己紹介:
涅槃
ARTICLE

P R