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思想
孤独


人は独りでは生きられないという月並みな言葉がある。
どれだけ人間関係を断とうがこの世の中で誰とも関わらずに生きるのは不可能と言うことである。
しかし、それなのに何故この世には「孤独」という言葉が存在するのだろうか?

私は、人がどれだけ大勢の人間に紛れて生きようと、その心の中には必ずしも孤独が存在すると考えている。
孤独。自分の中の誰とも共有することが出来ない部分。それは時に打ち明けられない本音であり、時に秘密の趣味であったりもする。
人はコミュニティの中で多くの人間と関わり、時に疲弊することがあってもこういった誰も立ち入ることが出来ない孤独を守り大切にすることで自分を安定させているのだと私は考える。

「孤独」と言うと少しネガティブで寂しそうなイメージがある。実際誰とも共有できないものと言うのは裏を返せば寂しいものとも言えるかもしれない。しかし私は孤独の感情を否定する気はない。
人は誰かと親密になっていく過程で胸の内を少しずつ明かし、孤独の部分も減っていくような感じがするが、どれだけ減らしても減らしきれない最後の砦となる孤独は残しても良い、と私は考える。
確かに人と親密になるには相互理解が大切だとは思うが、だからと言って全てを包み隠さず共有しないといけないことはないと思っている。抱えた孤独が他者とは相容れない場合もあるし、孤独だけが癒せる傷もある。

勿論私にも孤独の感情はある。わりかしざっくばらんな性格だとは自認しているが、それでも誰にも言えない思いや秘密は腐る程ある。親密な人間にすら隠している孤独もある。
私は自分の中の孤独を今後も大切にしていきたい。
人で溢れた世の中でも人は独りになれるし、独りであることが必要な時もあるのだ。
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「鬱」。心が晴れ晴れしないこと。気が塞ぐこと。憂鬱。
今の時代、気を病むことなくまともに生きるということは最早困難なのかもしれない。

鬱、メンヘラ、気の狂いなど心の病というものは一見奇特な性質であり普通の人間には無縁でありよくわからないものだと思われがちだが、例えば鬱病は日本人の15人に1人が経験するらしく、気の病は思っているよりも随分身近な存在だと思われる。

私の周りも普段は誰も言わないから一見みんな健常に見えるが、ある日突然病んでいることをカミングアウトされたり、見るからにメンタルに余裕のなさそうな者を見かけたり、ということがよくある。
そしてかくいう私も塞ぎ込んでしまうことは多々ある。

心が鬱々としてしまうと、周りは元気そうな人だらけに見えるのもあって自分一人がこんなに弱っているのではないかとつい負い目を感じてしまうことがよくある。しかしそれは間違いであり、きっと自分以外の多くの人も何かしら鬱を抱え込んでいる可能性が高いのだ。そう思うだけで救われるものがある。

大きな鬱、小さな鬱、曲がりくねった鬱、誰の心にもそれぞれの鬱がある。それは何もおかしな事ではなく、非常に普遍的な事である。
鬱に溢れたこの世の中でこれは最も大切な考えだと私は思っている。
そして誰もが鬱持ちかもしれない中で私たちにできることは、結局ありふれた思いやりに行き着くと私は信じている。根本的な解決等は専門家だったり、最終的に本人の努力でしかどうにもならないかもしれないが、理解すること、寄り添うことなら一般人でも出来る。そうやって心の穴を少しでも埋める手伝いが出来るのだと思う。

私も別に専門家ではない故少しフワフワした着地にはなってしまったが、鬱を抱えた多くの人たちと共に苦楽を乗り越えていきたいという気持ちだけは確かである。ありふれた思いだが、そういう思いこそが何かの救いになると信じていたい。


酒は好きだ。しかし酒の捉え方は年々少しずつ変化している。

幼い頃は酔っ払って迷惑をかける父を見て忌避感を感じ、大学に入ると少しずつ好奇心が芽生えた。それが大人への憧れだったのか純粋な未知への興味だったのかは正直覚えていない。
酒を飲み始めたばかりの頃は酒を非日常の象徴、飲むと楽しくなるものだと捉え酒というものに対して非常にワクワクしていた。また未熟故に酒に強い程かっこいいと思う時期も恥ずかしながらあった。
しかしそういったワクワクする感覚は今では失われつつある。

今の酒への印象を一言で言うなら「手段」である。友人達とコミュニケーションを取る手段、週の疲れを自分で労う手段、そういう手段に過ぎない。
勿論酒自体は今でも好きだ。むしろ今の方が好きだと思う。あの頃と比べて知識も、飲んだ量や種類も随分増えた。酒にも物語や特性があると知っている今の方が酒に対して愛情を感じられる。
ただ酒への距離感は以前よりドライになってしまったと思う。酒を飲むと楽しくなると思っていたが、逆に子供の頃と違って楽しい付き合いに酒が半ば必要になってくることに対して少し虚しさを感じるのだ。特に家族や古くからの友人との間にある酒に対しては、正直未だに昔はこんなもの必要なかったのに、という異物感を感じている。昔できたことが出来なくなるのは何も珍しいことでもないが、大きくなるにつれてこういう不健全なものに囚われていくのは少し悲しい変化だと思わないこともない。勿論酒を一緒に楽しむということは子供の頃では出来なかったので失うばかりでは無いが。

よくよく考えたら別に酒に対してワクワクしていた訳ではなかった、と気づいたのも大きい。
私はただ気のおけない友人と出会ってくっちゃべってへべれけになることだとか、家族で食事を楽しむとか、そういう人と共に楽しい時間を共有すること自体が好きだったのだ。そういう意味でも酒はやはり「手段」なのだ。もし酒以外で人と楽しめるなら健康だし全然その方が良いと思っている。

ただもう完全に酒にワクワクしなくなった訳ではなく、未知の酒、特にまだ飲んだことのないウイスキー等にバーで出会った時はワクワクするし、酒屋に陳列された高いウイスキーはいつも羨望の眼差しで見ている。これらの感覚はウイスキーどころかビールも満足に飲めなかった頃のそれとは全く違うものである。

このように私の中での酒は特別なアイテムではなく、あくまで交流の場の手段、あってもなくてもいいものくらいのものに変容しつつある。私にとってはもうワクワクする面白いものではなく、少し冷めた目で酒を見ている。
しかしその一方で未知の酒への探究心や感動、憧憬の思いは消えておらず、知識を得ていくことで過去とは違った形で深まっている。
好きだけど好きじゃない、部分的に関心がないが部分的にはある。我ながらなんとも複雑な思いを抱えていると感じている。
私は将来も飲酒は続けると思う。そして続けていくうちにまた見え方も変わっていくのかもしれない。
それが楽しみかどうかと言われると、今の自分ではYESともNOとも言えない。
優しさ


今、「優しさ」が軽視されていると思っている。

「優しいだけの男はモテない」と優しいことが前提条件あるいはマイナス要素のように語られたり、店やサービス等で親切丁寧な対応をされるのをいいことに横柄な態度を取る者がいたり、人の親切につけ込んだり利用する者がいるなど世の中では「優しさ」が舐められ過ぎている。

私はこれらの風潮を到底許せないものだと深刻に考えている。
優しさを軽視する者達は想像力が足りなさすぎる。優しさと一口に言っても色々あるが、大抵の優しさは他者の気持ちを思いやった上で成り立っている。優しさは一人では成り立たないのだ。
相手がどう思うかとか、何が相手のためになるとか、優しさとは他者の為にあれこれ考えたりエネルギーを使う行為なのである。例えそれが下心由来だったり純粋とは言えなかったとしても多大なエネルギーを使っていることに代わりはない。しかもそれを自分以外の為に使うなどなんと尊い行為なのだろうか。

そういったことを考えず、他者から享受されるばかりの人間は人として未熟であると私は思うのだ。人の為に多大なエネルギーを使う行為が優しさなのだとしたら、もしそのエネルギーが攻撃の為に使われたとしたら一体どうなるだろうか?優しい声かけや言わなかった言葉が悍ましい暴言に、丁寧な謝罪が粗雑な暴力に、きめ細やかな接待が酷い無礼に......。そういうことを考えられない人間が多過ぎると言っているのだ。

日頃から親切な人間はその分多量なエネルギーを抱えて、それを傷つけることに使わないよう細心の注意を払いながら生きている。自分の事で精一杯な人間にはそれがわからない。そしてわからないことを恥ずかしいとも思わない。これを厚顔無恥と言うのだ。

人が人に優しくすべきであると言われる理由、それは色々あると思うがその中の一つとしてこういう大きなエネルギーを持った人たちがそれを悲しい使い方で使わなくていいようにする為、というものがあると私は思っている。そうやって人の優しさに応えながら自分の中の優しさやエネルギーを育てるのが本来の在り方だと考えている。
かくいう私も未熟だ。優しくもなんともない。しかし優しい人間を慮る努力は欠かさないようにしている。そうやって自分のエネルギーを育て、大切な誰かに使っていきたいのだ。
距離感


人間関係やコミュニケーション等において最も大切なこととは何か。それは距離感である。

私はほとんどの対人トラブルの原因は距離感を見誤ることだと考えている。距離感を詰め過ぎて拒絶される、距離感を見誤り心ない言葉をかけてしまう、距離を取り過ぎて嫌われていると思われる、ほぼ全ての対人トラブルは距離感ミスに収束されると考えている。

少し言葉が強いだろうか?そう、私は「距離感信者」である。
世の中に様々な宗教や人物等、思想等を信仰している人がいるように、またほぼ全ての人間が科学の信者であるように、私は「距離感」の信者である。

生きていれば当然対人トラブルは沢山ある訳で、傷つけたり傷つけられたりを繰り返してきた訳だが、ある時そんな話を友人としていると、友人が「ちょっと距離感を取るのが苦手なのかもしれないね」と言った事があった。
その言葉は私からしたら啓示のようなものだった。全てのトラブルが、一つの言葉で繋がったのだ。

それから私は「距離感」とは何かについてよく考えるようになった。距離感のミスがトラブルを引き起こすなら、それ即ち問題のないコミュニケーションや人間関係は適切な距離感が取れているものということになる訳だが、一体人はいつどこで適切な距離感を学んでいるのだろうか?
お店やサービスの人間に馴れ馴れしい態度を取ってはいけない。初対面の人間に過度に積極的に接してはいけない。親密でもない人間へのいじりはよく考えないといけない。こういう距離の取り方って一体どこで学ぶのだろうか?逆に学べなかった人間は何故学べなかったのだろうか?
私だって別に習った覚えなど無いが、それなりに人間関係を築けている為多分どこかで学習はしている。それを思うと恐らく答えは「経験」というなんとも無難な答えに行き着くのだろうが、逆に学校とかで教わるとかでもなく自分で考えて自分なりの「距離感」を見つけないといけないというのは中々難しい話じゃないだろうか?

そして距離感の学習は終わらない。人生のステージが変化するにつれて、その先々で適切な距離感を見つけないといけないのだ。人は距離感を考えなければ生きていけない。
よくコミュニケーションは難しいと言われることがあるが、きっとその理由も「距離感を自分で経験と共に学んで見つけないといけない」ということなのだろう。

いかがだろうか?これが距離感信者が考える人間関係とコミュニケーションの仕組みである。
もしかしたら「距離感」以外の答えがあるのかもしれないが、少なくとも私は信者なので全てが距離感に行き着くと考える。
貴方は人間関係において距離感を信仰しているだろうか?それとも別のものを信仰しているのだろうか?なんにせよその答えはほとんどの場合最終的に自分で導き出すしかない物である。
PROFILE

HN:
怪獣
性別:
非公開
職業:
生きること
趣味:
ダイビング、ギター、ゲーム等
自己紹介:
涅槃
ARTICLE

P R